2010-08-06

祖父と8月6日

日が変わったので、8月6日。
今日は、私が生まれるちょっと前に亡くなった祖父の話。



広島と祖父と8月6日、そして産業奨励館。


祖父は、内務省中国四国土木事務所に勤めていました。そう、原爆ドーム




祖父は、終戦当時いくつだったんだろう。
4度目の召集がかかっていて、軍の配慮により外地へ派兵されることなく、山口の光町にあった工場か軍施設(細かいことは知りません・・・)にいたと聞いています。


原爆が落とされた日、山陽線で広島市内を抜け東広島の家まで戻って、翌日町内の代表者としてもう一人の方と祖父の二人で救護に向かったと聞いています。

二次被爆者に当たります。
原爆手帳も持っていました。


この話を聞いたのは、今年亡くなった祖母からか、父からだったか覚えていませんが。



両親が広島出身のため、平和記念公園と宮島にはよく連れてってもらいましたが、顔の知らない祖父について、結局はあまり知らないのです。



あるとき、父がこんな話をしてくれました。

父が、中学生くらいのときだったと言います。


当時、広島市内に社会科見学で行く場所と言えば、原爆ドーム、だったそうです。(今でもそうかもしれませんが、私は広島で育っていないので、わかりません。)


皆で行く社会科見学とあって、父は家ではしゃいだそうです。そうすると、祖父は、何も言わずに部屋を出て行ってしまったそうです。


父は、祖父が原爆ドームの元々の姿である、広島産業奨励会館に勤めていたことを知りませんでした。まだ中学生でしたから。


祖父は、同僚の全員が亡くなっているあの会館には、行きたがらなかったと聞きます。やはり、別な場所にいて被爆せず助かった身として、思い出すと辛かったんだろうと、父は言っていました。




祖父は、その後土木事務所の担当として、原爆投下の3日後には動き出した市電と、その周辺の土地区画整理事業を担ったと聞いています。


幸いなことに、特に被爆の後遺症が出ることもなかったそうですが、退職直前に胃がんが発見されそのまま死去しました。



今年始めに亡くなった祖母(祖父亡き後、40年間二人の息子を育て一人で生き抜きました。)のお葬儀で、叔父が、やはりあれは、原爆の後遺症じゃなかろうかと思う、と話していました。

そして、古いアルバムから、広島のとある河川工事現場を背景に、同僚の方と楽しそうに写真に納まる祖父を見ました。


改めて、建築を志したはずが、都市計画事務所に勤め区画整理をやるハメ(こらこら!)になったのは、会ったことのない祖父の影響があるのかもしれないと思いました。




この夏は、祖母の初盆です。

原爆に犠牲になった人たちと、そしてあの戦争で犠牲になった世界中の人たちに、黙祷をささげたいと思います。小さなことですが、これが私にできる平和への祈りです。

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